『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』ジェーン・スー
「東京生まれ東京育ちが地方出身者から授かる恩恵と浴びる毒」
くらいでした、読みモノになっているのは。
「やさしさに包まれたなら、四十路。」
小さい頃は、神さまなんていないと思っていました。
うふっ、と笑ってしまうハナレワザも繰り出しては来ますが、どうも読んでいて、フラフラフラフラする語り手なのです。
着地しようとするやいな、身をかわして別の話題へ跳び、自虐ネタで幕を閉じます。
そのため、コラムではあれど、教科書にも載るような「読みモノ」=随筆にはなっていない、なりそこなう文章が多いのです。
しかしながら、そうして、「なりそこなって」見せるのが、ジェーン・スーのパフォーマンスの味なのかもしれません。
文章が、「正解しない」ことを楽しみ尽くせるか、どうか……
読みづらいことには変わりありません。
そのコラム集の中でも、一際語り手が力んでいてスピード感あるのが、「東京生まれ~」なのでした。
東京に生まれ東京に育ち、悪そうな人とはまったく縁のない人生を送ってきました。幼稚園時代は窓を開けると後楽園球場から聞こえてくる巨人戦の歓声。小学校では「8時だョ!全員集合」の観覧に当たった子が羨望の的。中学時代には近所で行われているドラマの撮影を横目に登校し、休日は原宿に遊びに行きました。
高校に入れば雑誌に載っているかっこいい男の子が、友達の友達ぐらいだったりする。雑誌やテレビで紹介される流行りのあれこれは、実際に自分の周りで起こっているあれこれと同じでした。十八歳まではそれが普通だと思っていた。この時は、自分が巨大なテーマパークに産み落とされ、遊ばされていただけとは知る由もなかったのです。
この記述を読むと、こと「東京生まれ東京育ち」の立場についてだけは、語り手はよく自分を客観視できているように思います。
「雑誌やテレビで紹介される流行りのあれこれは、実際に自分の周りで起こっているあれこれと同じでした。」
なんてことを言えるのは、生半可な感覚ではありません。
なぜなら、それは地方出身者の感覚をまったく逆に言い換えた逆説だからです。地方出身者からすると、「雑誌やテレビで紹介される流行りのあれこれは、実際に自分の周りで起こっているあれこれと別の世界・次元で起こっていました。」だからです!
ジェーン・スーは続けます。
東京人ではない人が東京を作り、そこで生まれた光はガーッと地方を照らし、誘蛾灯のように地方からまた人を集めてくる。東京人不在の東京狂想曲の始まりです。
これ以降から、ちょっと言い過ぎの、排他的な政治的右派のジェーン・スーの横顔が見えてきます。
地方出身者が移り住んだ「首都:東京」と私の「地元:東京」は、共依存のパラレルワールドです。本来ならそれぞれが独立するはずの世界が、同じ場所で同じ時間を共有する矛盾に成り立っている。
「矛盾」とまで言われると、東京で頑張ってきた地方出身者は、傷つくものです。思想が偏っているところ、「共依存のパラレルワールド」なんて比喩を使って対比しているがために、毒素は必要以上に強くなっています。読んでいて、自分の交遊関係のなかにいる、「東京生まれ東京育ち」の知りあいの愚行まで思い出されて、不快感すら抱いてしまいます。
読む側に強い感情が生じるのは、語りになにがしかの強さ・勢いがあるからでしょう。
ジェーン・スーがなぜ東京と地方をここまで区別したがるのか、理由は、おそらく知るすべがありません。